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小さなベッドが並んだ部屋。
人数分もないので、一つのベッドに数人が身を寄せ合って眠る。
すやすやと寝息が聞こえ始めた頃、レスターが母に声を掛けた。
「ねぇ、母上…。」
ベッドの傍の椅子に腰掛けていたエーディンは、身を乗り出してレスターの顔を覗き込んだ。
「なぁに?」
「父上は、いつ帰ってくるの?」
レスターの無垢な瞳に、エーディンは一瞬息を飲んだ。
しかし、微笑んだ表情は崩さないまま平静を装う。
「………きっと、もうすぐよ。」
母がそう言っても、レスターはきゅっと唇を結んだまま瞳をほんの少しだけ伏せた。
「僕、ミデェールが父上だったら良かったなぁ…。」
「……!」
レスターは呟くように言った後、瞼は眠気に負けて閉じられて、小さな寝息を立て始めた。
「………。」
エーディンは悲しそうに微笑みながら、レスターの寝顔を見下ろしている。
手を伸ばし、そっと青い髪を撫でてやり、まあるい額にキスをした。
青い髪は、グランベル人の血の証。
顔は、目元なんかは特に、ヴェルダン人の夫・ジャムカに似ている。
レスターが生まれ、ジャムカと三人で過ごしたのはほんの一年だった。
ほんの一年でも、エーディンにとっては最高に幸せな日々だった。
愛する夫と子供と、そのすぐ後に起こる悲劇までの間に作られた、大切な思い出。
しかし、その時まだ一歳だった息子には、父の思い出は薄いのだろう。
記憶にないジャムカよりも、今傍にいて弓を教えてくれるミデェールを慕う。
それが当たり前だ、仕方のないことだと理解してはいたが、レスターがあんなことを言ったのは初めてだった。
(…ジャムカ………。)
子供部屋を出て扉を背に、すぐに足は動かず、エーディンは肩を震わせて静かに泣いた。
一粒涙が流れ落ちると、次から次へと目から溢れて頬を濡らし、止むことがなかった。
それは、心の奥底にしまい込んでいた過去の記憶を蘇らせる。
まるで洪水のように押し寄せる、悲しみの涙と恐ろしい記憶。
思い出すのは、最後に見た愛する人の笑顔。
必ず、君のもとへ帰るから―――
そう言って背を向け、彼は赤く燃える火の中へと消えていった。
今でも、あの時の空気の熱さは覚えている。
「…エーディン様。」
静かな空間に響く、聞き慣れた穏やかな声。
ゆるゆると顔を上げると、小さな炎が揺らめく燭台を手に持ち、ほの灯りの中にミデェールの姿が見えた。
「…ミデェール。」
悲しい時や辛い時、この騎士は必ずエーディンの目の前に現れるのに。
愛するあの人は、まだ、現われない。
(きっと、もう二度と―――。)
そう。
いつかきっと帰ってくると思い込んではいるけれど。
『もしか』という細い細い糸を掴もうとする手を止められないのだけれど。
それでも、もう既に、諦めきっている自分もいる。
諦めて、死を認めれば楽になるのに。
瞳にまた、涙が溢れた。
教会の祈りの間に、二人はいた。
すすり泣く声が響き、薄暗い空間に赤い蝋燭の火が揺れている。
正面にある慈愛を象徴した白い人物像は、火の灯りを受けてオレンジ色に浮かび上がっていた。
慈愛に満ちた表情で見下ろすその人は、しかし、なんの慰めにもならなかった。
(エーディン様はいつも、この像に祈りを捧げているのに…。)
ミデェールは、泣き続けるエーディンの隣に座っていた。
何故泣いているのですか、とは問わない。
泣いている理由は、知っている。
帰らない最愛の人を待って泣いていることを、知っている。
この世にたった一人だけの、何者にも代えることはできない、最愛の人。
ミデェールがどんなに頑張っても、その人の代わりにはなれないし、なれなかった。
そのことも、知っている。
騎士の家に生まれ、物心ついたころから騎士としての教育を受け、そしてユングヴィ家の騎士となった。
エーディンの笑顔は、騎士になったばかりのミデェールの不安や心細さを取り払ってくれた。
優しく声をかけて、暖かな笑みを向けてくれた。
大きな大きな包容力が、彼女にはあった。
「この人のために騎士として身を捧げよう。」
その忠義はやがて年を重ねるごとに、恋心へと変わっていった。
しかし、その恋心は誰にも、彼女でさえも決して悟られることがないように。
また、そんなものを抱くようになった自分自身を戒めるように。
ただ一心に彼女を守ることだけ、彼女の幸せだけを考えてきた。
ジャムカと寄り添い、幸せそうな笑みを浮かべるエーディンの姿を、胸が締め付けられる思いで見つめてきた。
その想いを押し殺し、心の奥へ奥へと追いやり、祝福した。
それで良いと思っている、昔も、今も、これからも。
(…しかし。)
椅子に置いた燭台の炎を見つめていたミデェールは、そっとエーディンに視線を移した。
(これで良かったのだろうか…。)
細い肩を震わせて泣いている、忠誠を誓った愛しい姫。
ただ彼女の幸せだけを考えて、ジャムカとの結婚を祝福したのに。
今ここに、ジャムカはいない。
姫を慰めることができるのは、騎士である自分しかいない。
しかし、自分が何を言っても慰めにならないことを、知っている。
手を伸ばせば、その肩に触れることができるのに。
触れて、引き寄せて、この胸に抱くことができるのに。
ミデェールは、自分の手を伸ばすことをしなかった。
心の中の葛藤。
手を伸ばすのは簡単だ。
しかし、伸ばしてしまったら、もう元には戻れない。
今まで築き上げてきたものが一気に崩れ去るだろう、その微かな恐怖。
ジャムカへの、意味のない苛立ち。
何故、彼女をこんなにも悲しませるのか。
(エーディン様がこんなに泣いているのは、初めてです。ジャムカ様…。)
ミデェールは瞳を閉じた。
思い出すのは、一面の赤。
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07.05.22