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ティニーは茶器を乗せた銀の盆を掲げ、廊下を歩いている。
盆の上の陶器のうつわ達は、揺れに合わせてぶつかり合いながら小さな音を立てていた。
「あら。」
ふと足を止め、窓の外を見上げる。
それと同時に、盆の上も静かになった。
「雨…。」
最初はぽつりぽつりと落ちていた雨だったが、
やがて木々や地面、石段にあたり涼しげな音を立てるまでになった。
それでもアルテナは一人で屋上に佇み、中に戻ろうとはしなかった。
身体が濡れてしまうことを厭わなかった。
雨が降る、このトラキアの大地を見ていたかったから。
自分と、自分の全てを変えてしまったこのトラキアの大地は、
雨に濡れてしまうとどう変わってゆくのだろうか―――。
「アルテナ様!」
突然名前を呼ばれ、アルテナは振り返った。
そして目を見開く。
「…フィン………!」
走り寄ってきたフィンはアルテナの手を取った。
微かに懐かしさを感じる、大きくて暖かい手。
「風邪を召されては大変です。さあ、中へ。」
手を引かれながら、アルテナはフィンの背中を見た。
幼い頃の微かな記憶しかないけれど。
「何も…変わっていない………。」
私の、想いも…。
「はい?」
髪から小さな雫を滴らせながら、フィンが振り返る。
まぶしいものを見るかのように、アルテナは目を細めた。
暖かな手も大きな背中も藍色の瞳も、あの時のまま。
「―――なんでもありません。」
微笑んだアルテナは、フィンの手をしっかりと握り返した。
「今日はここまでにするか。」
「…はい。」
剣を下ろし、額の汗を拭うラクチェ。
先程までは中庭で、スカサハも含めて3人で稽古をしていたのだが、
雨が降ってきたので城内にある稽古場に移動してきた。
その時、スカサハは気を使ってくれたのか、あるいは偶然なのか。
たぶん偶然なのだろうけど、スカサハは先に部屋に戻ってしまった。
だから、今この空間にいるのはラクチェとシャナンだけ。
ラクチェとしては、久し振りに二人きりになったのだ。
飛び上がるほど嬉しかったし、胸もずっと高鳴っていた。
しかし、何の進展もないまま稽古は続き、そして二人きりの時間は終ってしまった。
心の中で深く溜め息をつきながら、ラクチェは用意していたタオルで汗を拭った。
「また一段と腕が上がったな。」
「へっ?」
自分でも情けなくなるほど間の抜けた声。
その様子に、シャナンは微笑んだ。
「強くなったな。」
「ほ、本当ですか!?」
恋する女の子が期待するような甘い言葉ではないけれど、
ラクチェにとっては、それでも十分嬉しい。
今はこれで良いんだ。
ラクチェは顔をほころばせた。
「ああ。」とシャナンはラクチェの頭を軽くなでた。
「いつも見ているからな。」
「…えっ?」
ラクチェは目を丸くしてシャナンを見上げた。
微笑んでいるシャナン。
嬉しくて、自分の顔が次第に赤くなってゆくのがわかった。
「あたし…雨って嫌い。」
バルコニーの手摺りに肘をつき、じっと雨を見つめながらリーンは言った。
目の前に広がる風景は、雨が覆い尽くす灰色。
「街で踊ってると、たまに雨が降ってくるでしょ?
そうすると、今まで踊りを見てくれていた人達はみんな家に帰っちゃうの。
そこに残されるのはいつもあたし一人。帰る所がなくて、寂しかったな…。」
「リーン…。」
デルムッドは、遠くを、雨を見つめているリーンの横顔を見た。
今までずっと一人でいた時のことを考えているような、悲しそうな瞳。
孤児院で育ち、踊り子として軽視される立場にいるリーン。
それをずっと一人で耐えてきた彼女を、支えてあげたい。
デルムッドは思いを伝えようとして、口を開いた。
「あの…!」
「でもね、今は寂しくないんだよ。今のあたしには帰る場所があるから。」
タイミングを失ってしまい口が開いたままのデルムッドを見上げ、リーンは微笑む。
「あたしにはデルムッドの隣があるから。」
目を丸くしたデルムッドは、それからため息をついて肩を落とした。
その様子を見て、リーンは動揺した。
「デ、デルムッド…?め、迷惑だった…?」
悲しそうにデルムッドの顔を覗き込む。
リーンの表情は、さっき雨を見ていた表情よりも悲しそうに。
違うよ、とデルムッドは顔を上げて笑った。
「先に言われたなと思って。」
沈んでいた表情は、次第に紅くなり、いつもの笑顔が戻っていた。
「…もうっ!ビックリさせないでよ…!」
そう言って、リーンはデルムッドの胸に飛び込んだ。
石段に座り、雨に濡れる中庭を眺めてどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
ナンナは横目で隣にいるリーフを見た。
まだ言葉を交わしていない。
トラキアの地に来てから、リーフにとっていろいろなことがありすぎた。
そのため、ここ数日元気のなかったリーフを誘い出した。
一緒に雨を見ながらいつものように話をして、それでリーフが元気を取り戻してくれれば。
セリス達の前では明るく、ごくごく普通に接しているリーフだったが、
いつも傍にいたナンナには分かっていた。
「…すごい雨ですね。」
しかし、いざ二人きりになってみると話しずらい。
口から出た言葉はあまりにも簡素な話題で、ナンナは心の中でうなだれた。
突然、リーフがくすくすと笑い出した。
「ど、どうしました…?」
「…あの日のことを思い出しちゃった。」
今度は声を出して笑った。
緊張が解けて、ナンナの表情も次第に明るくなる。
久しぶりにリーフが笑ってくれた、心から。
それがとても嬉しかった。
「覚えていたんですか?」
「当たり前だよ。」と、リーフは笑いながら言った。
「雨の日になると思い出しちゃうんだ。ナンナは覚えていなかったの?」
「そんなことはありません!」
ナンナは力強く首を振った。
二人は顔を見合わせて笑った。
「雨の日といったら他にも…。」
リーフは唇の端に笑いの余韻を残しながら言う。
「あれは言っておきますけど、リーフ様のせいですからね!」
「え~、そうだっけ?」
中庭には、雨音を消してしまうほどの明るい笑い声が響いていた。
思い出を共有する二人は、いつまでも語り合った。
雨が降る城下町を走る人影が二つ。
アレスと、アレスに手を引かれているユリア。
二人は広場の中央にある大きな木の下に入り、立ち止まった。
周りは家の窓から漏れる光、店の看板を照らす光、そして街頭の光。
「大丈夫か、ユリア。」
アレスの息は乱れていない。
「…はい。」
ゆっくりと息を整えながら、ユリアはアレスを見上げて微笑んだ。
しかし、すぐに悲しそうな表情で俯いた。
「すみません…。」
「何がだ?」
「無理矢理…ついて来てしまって…。」
見るからに華奢な肩を落とし俯いているユリアを見る。
アレスが城下町に行くと言ったとき、ユリアは一緒に行きたいと頼んだ。
トラキアの地を制したことにより解放した、と思っているのは、
自分達と少数のトラキアの民のみ。
大半のトラキアの民は、未だに解放軍に対して非友好的である。
解放軍を「侵略者」と恐れていることに変わりはない。
そんな中にアレスが一人で行ってしまうのがとても心配だったから、
ユリアは半ば強引についてきた。
しかし、アレス一人が街人にからまれたとしても、力の差は歴然としている。
ユリアと一緒にいた方が「女連れ」ということでからまれたりしないかと、
アレスはそれを心配していた。
それでも、ユリアはアレスの身を案じ、ついてきたのだった。
「ああ、本当にな。」
肯定するアレスに、ユリアはますます小さくなり肩を落とした。
すると、アレスはユリアの前に回り、ユリアの首に手を回した。
「え…?」
ユリアは胸元に光る小さな青い石を見た。
「あ、あの…これは…?」
小さく首をかしげ、アレスを見上げる。
「ユリアに気づかれずに買うの、大変だった。」
アレスは微笑んだ。
普段、人前では滅多に笑うことはないアレス。
しかし、恋人のユリアの前でだけ見せる笑顔。
それは、冷たいイメージのあるアレスの中にある、暖かい優しさ。
「ありがとうございます…アレス…。」
ユリアは大事そうに青い石を握り締めた。
アレスは自分のコートを脱ぐと、ユリアに掛けてやり、そしてユリアを抱き上げた。
「きゃっ、ア、アレス様!?」
頬を赤らめて慌てるユリアを気にすることなく、アレスは言った。
「城まであと少しだ。」
そして、アレスはユリアを抱きかかえたまま、雨の中を走り出した。
セリスは窓辺に立ち、トラキアの地を眺めていた。
そこは、以前まで治めていたトラバント王のごとく雄大に脅威的に見えていたのだが、
今、なんの抵抗もなく雨に降られているのを見ていると、まるで迷子の子供のように思える。
トラキアの地は、彷徨っている。
他の地とほとんど変わりはないのだ。
「セリス様、どうぞ。」
ティニーが歩み寄り、セリスに紅茶の入ったうつわを手渡した。
「ありがとう。」
微笑みながらうつわを受け取ると、また窓の外を見た。
ティニーは隣に並び、セリスの横顔を見上げる。
セリスの思っていることは、ティニーにも想像できた。
トラキアの地での今現在の状況は、解放軍にとって、セリスにとって。
初めて味わう試練だった。
「…セリス様。」
「うん?」
「私…雨、好きなんです。」
にっこりとセリスに微笑み、ティニーは続けた。
「アルスターにいた頃は嫌いでした。」
静まりかえった部屋には雨の音が響く。
「でも、今は好きなんです。
雨のおかげで木や草や花が育って、私達も生きているんですよね。」
「…そうだね。」
「私がこれに気づいて、そう考えるようになったのは、解放軍に入ってからなのです。
解放軍に入ってから、考え方みたいなのが変わって…私も、変わりました。」
セリスはティニーを見て、ティニーは窓の外を見ている。
「周りに目を向けるようになったのです。」
「………。」
「セリス様。」
ティニーはうつわを窓枠に置くと、セリスを見上げ、その青い瞳をしっかりと見つめた。
青い瞳の中には、自分が見える。
「今のトラキアは、以前の私と同じなのです。狭い範囲しか、見ていないのです。」
「………。」
「でも、セリス様が全てを終わらせたとき、きっとトラキアの人々は変ります。
セリス様のしてきた事を振り返り、気付き、そして信じてくれます。」
しんと静まり返った部屋。
セリスは目を丸くして、ティニーを見つめていた。
「ティニー…。」
そこでティニーは我に返ったように慌て始めた。
「あっ、ご、ごめんなさい!私ったら…え、偉そうに…!」
セリスはうつわを窓枠に置くと、ティニーを優しく引き寄せた。
「…ありがとう。」
「え?」
「ありがとう、ティニー。」
ティニーから体を離し、セリスはまっすぐティニーの瞳を見つめた。
「ティニーのおかげで、気が楽になった。本当にありがとう。」
大切なのは“今を変えること”じゃない。
“今を変えるために進むこと”なのだ。
ここで立ち止まっていても、何も変わらない。
信じてくれている人々のために前に進み、全てを変える。
それに気づかせてくれた少女を、セリスはもう一度抱きしめる。
「ありがとう、ティニー。」
「…いいえ。」
窓の外はやさしく降りそそぐ雨。
この愛する人が、世界を潤すやさしい雨になりますように―――。
セリスの胸に頬を寄せながら、ティニーは心の中で祈った。
Fin