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跪いた先にいる主が、まるで鞠が跳ねるかのような軽やかなトーンで、名前を呼んだ。
「イシュタル。」
まだ少年のあどけなさの残る無邪気な声だった。
その声を聴くたびに、イシュタルの心の内はせつなさで満たされてゆく。
それは敬愛なのか、畏怖なのか、哀憐なのか、わからない。
唇をきっと結び、顔を上げて、主を見やる。
主――ユリウスは笑っていた。
怖いくらい整った顔立ちに、その笑顔もまた少年のような無邪気な愛らしさを思わせるが、
イシュタルの首筋に、ざわりと冷たいものが走った。
いつものことだ。
ユリウスの無邪気で冷たい声が、頭の上から鳴り落ちた。
「イシュタル、―――。」
「…イシュタル。」
名前を呼ばれ、イシュタルはゆったりと顔を上げた。
「――…。」
視線の先には、不思議そうに首を傾げた王――セリスの顔があった。
「イシュタル、どうかした?」
凛とした、涼やかな声。
「あ…いいえ。」
すみません、と居住まいを正した。
小卓に向かい合うかたちで座っている二人の前には、茶器が並んでいる。
今が王の休憩時間であったことを思い出した。
いったいどれくらい放心していたのだろうか。
手も付けずに目の前に置かれている器のお茶の湯気は、とうに消えたようだった。
ふいに、セリスが小さく笑い出した。
「どうかしましたか?」
「いや…。」
くつくつと笑ったまま、セリスが言葉を続けた。
「イシュタルも、ようやくぼーっとするようになったね。」
「せ、セリス様!違います!」
ぽっと頬を熱くしながら抗議したが、その姿もセリスが笑うには充分だったようだ。
「僕は嬉しいんだよ、イシュタル。」
「………。」
「以前までのイシュタルは、いつも怖い顔してて。」
と、セリスは両手で左右の目の端を釣り上げた。
こんな顔してた、と言っているのだ。
「口調も冷たい感じだったし、雰囲気も暗いっていうか冷たいっていうか。」
「………。」
イシュタルは、膝に添えられた自分の手の甲に視線を落とした。
確かに、と密かに思う。
あの頃のことを思い出すと、今でも心はせつなさが込み上げてくる。
そっと目を閉じると、主の声が聞こえてきそうだった。
でも、とセリスが続けた。
「イシュタル、穏やかになったよね。」
小卓に頬付えをつき、にっこりと微笑んだ。
身分からも歳からもかけ離れているような彼の振る舞いや表情は、
かつての主を思い起こさせるものの――実際、彼の無邪気さはどこか主に似ていた――
イシュタルの心の内はいつも和やかな気持ちになるのだった。
それは―――。
「…セリス様のお陰です。」
ぽつり、とイシュタルが呟いた。
「うん?」
イシュタルが顔を上げた。
視線の先には、微笑むセリスの顔がある。
「セリス様がいたから、私は…今の私がいるんです。」
「それは良かった。」
にっこりと微笑むたびに、イシュタルの心臓がとくんと音を立てる。
自分に向けてくれるその笑顔や声が、どんなに心を暖めてくれたか。
貴方のお陰で今の私がいるのだと、本当にそう思う。
かつての主と同じような無邪気さがもたらすイシュタルの胸の和やかさは、
きっと恋する気持ちがそうさせるのだろう。
かたん、と小さな音を立ててセリスが椅子から立ち上がり、小卓に手をついた。
何をしたいのか、分かっている。
イシュタルは微笑むと、彼女もまた立ち上がり、身を乗り出して。
ゆっくりと瞼を下ろした二人の唇が、重なった。
fin